どれだけの人がDJ CHAPSというアーティストの名前を知っているのでしょうか?
過去に雑誌、ラジオ、テレビ等の露出はそれほど多くない彼。
しかし、2005年6月までの東京でのパーティーのフライヤーで彼の名前を見ない日は無かった。
そう、今や東京のパーティーフリークで彼の名前を知らない人はいないはずでしょう。
いや東京に限らず、パーティーフリークであれば彼の名前を知っている人は全国にいるはずです。
そんな彼は、2005年6月いっぱいで東京での活動を休止し、単身アメリカ・ニューヨークへ渡米。 新たな飛躍の場を海外に向け日本を飛び立ったのである。
彼は、広島県に生まれた。
幼い頃から音楽と野球が大好きであった。小学生の高学年の時に従兄弟から古いフォークギターを貰い、それを教わり、中学生の文化祭では弾き語りで長淵剛さんの曲を披露している。中学生時代の彼は、特にブルーハーツとジュン・スカイ・ウォーカーズに夢中だった。両バンドのファンクラブに入り、野球の部活の合間をみては仲間とライブに通っていた。そんな中学生時代のある日、雑誌「宝島」でブルーハーツのボーカル・ヒロトのインタビューを読んだ彼。その記事を読んだ事がその後の彼の音楽人生を大きく変えた。憧れのパンクロッカーの大好きな音楽は、なんとブルースだった。パンクロッカーがブルース、、、。彼に大きな衝撃が走った。そのヒロトの記事の隣のページにはボ・ガンボスのボーカル、“どんと”の記事。彼もまたブルースが好きだと書いていた。ブルース、、、。ど田舎で生まれ育った彼は、100キロ先のタワーレコードを目指しアメリカのブルースのCDを手にした。アメリカのブルースはもちろん、日本のブルージーなものにも興味を持った彼は、中学生で憂歌団、内田勘太郎、RCサクセション、忌野清志郎、仲井戸麗市(チャボ)、土屋公平(蘭丸)、麗蘭なども好んで聴いていた。音楽好きの彼はもちろんブルースだけでなく、洋楽、邦楽ジャンル問わずこの中学生時代に多くの音楽を聴いた。その多くはラジオからだった。この時代に雑誌ブラック・ミュージック・レビューを読むようになった彼は、そこでさらに多くのヒップホップ・アーティストを知る事になる。全てはブルーハーツ・ヒロトの記事がきっかけになっているのである。音楽にジャンルは関係無いということを。
中学生から高校生になる時期にとあるレコード売買で資金を稼ぎ、その後念願のターンテーブルを購入。その時の彼は16歳だった。ここからDJ CHAPS(DJ チャップス)が誕生した。
高校生時代の彼は、近所の先輩にサーフィン&スノーボードに連れて行ってもらったり、スケートボードに明け暮れたり、夜な夜なクラブ通いしたりと遊びに没頭していた。
そんな高校生時代を経て19歳になったばかりの彼に大きな転機が起こった。地元のとあるライブハウスがクラブ営業も加えるとう噂を嗅ぎ付けた。全くDJなど募集していなかったが彼は飛び込みでお店を訪ねた。飛び込んだ勢いが良かったせいか気に入られ採用が決まった。まだDJ募集をかける前だった為、お店のDJは彼で決まった。もちろんお店のバイトなので掃除等なんでもやる事が当たり前の条件の時代だった。この時代に彼の基礎は鍛えられた。ロングプレイはもちろん、様々なジャンルをバランスよく1晩でかけてお客さんを踊らすということである。また、彼はこの時代に生バンドでラップグループのラッパーとしても活動していた。彼が街中に貼りまくったメンバー募集を見てまず3人のメンバー(リーダー、ジャイアン、ユウヘイ)が集まった。その後、1人(コウチ)が加わりバンドメンバーは5人で構成された。バンド名はDOKU-CHIRU(毒散/ドクチル)。約1〜2年の活動を経て、チャップス&コウチでラップグループ・BLESS(ブレス)を結成。これも1〜2年の活動を経て、それぞれソロ活動へと移っていった。彼のDJ活動の方は、バイト先のお客さんとして知り合ったDJ、テイ、リョウ、ワタナベとBEAT SPICE(ビート・スパイス)を結成。様々な地元のパーティーをロックし続けた。彼にとって地元の仲間(リーダー、ジャイアン、コウチ、ユウヘイ、テイ、リョウ、ワタナベ、エリ、ミノルード、ポロ・エス、モーティー、PNK、ユウ、ユーシン、コウヘイ、セオ、タツ、ユリ、ユカ、ミズキ、ミズタ、ヒサシ、マサ、グレード1、ファーム・クルー、ニシヒラ、ナカタニ、アフロ・レコード、グルーヴィン、ベニス他多数)との出会いは掛け替えの無い出来事である。
彼はそんな多くの仲間の声援を受け上京。
新たな飛躍の場に東京を選んだ。
レコード屋で働きながらDJ、ラッパーとしての活動をコツコツ続ける日々。とある日彼は、レコード屋のお客さんで仲良くなったDJ KOYA(DJ コウヤ)に「DJやられてる時にMCは必要ないですか?」と尋ねた。答えは「やりたければ来れば?」という答えだった。彼は水を得た魚の如く、DJ KOYAがスピンする時は毎回マイクを持参し通った。当時はDJブースの横にマイクなどそうそう置いてある時代ではなかった。もちろん彼は好き好んで勝手に通ってる訳で彼の名前がクレジットされることは全くなかった。当然である。そんな地道な活動を2〜3年続けました。もちろんDJの活動もやりつつ。そんなある日、DJ KOYAから1本の電話があった。「渋谷ハーレムで毎週火曜日のパーティーをやる事に決まったから一緒にやるでしょ?」という電話だった。もちろん彼は「はい。やらせて下さい。」という答えを出した。 2001年1月16日火曜日からDJ KOYA、DJ KANGO、MC CHAPSというクレジットでビッグパーティー「レッドゾーン」が始まった。彼の役割は、MCと早い時間のDJだった。誰もが憧れる日本最大のヒップホップ・クラブ、渋谷・ハーレムでのウィークリー・パーティーを手にした。彼はこのパーティーで多くの様々な経験をした。多くの外国人アーティストと競演を果たすという経験もこのパーティーである。
このパーティーの他にDJとして彼の名前を不動にした伝説的ビッグパーティーが2つある。「ホットジャム」「スパ」というパーティーだ。両パーティーのレジデントDJとして「ホットジャム」では5年、「スパ」では4年務めた。彼のDJスタイルは、ヒップホップを中心にR&B、レゲエ、ダンス・クラシックス、ハウス、ロック、ポップス、80’s他と音楽好きが十分に発揮されたプレイスタイルで多くのパーティーフリークを魅了した。 この時代を転機に彼は多くのパーティープロモーターからのオファーを受けた。DJとして、そしてMCとして。それは東京だけに限らず全国各地からだった。
DJ作品としては、R&Bのミックス・テープ「キャラメル」を5作品、オールジャンルのミックスCD&テープ「ホットジャム&スパ」を4作品リリース。2003年1月から2005年4月までマンスリー・ヒップホップ・ミックスCD「スニフ(1〜28)」をリリース。その後、2005年5月から2006年4月までマンスリー・R&B・ミックスCD「フェイバリッツ(1〜12)」をリリースした。
現場第1主義の彼だけに、現場、同業者からの信頼、支持、またパーティーフリークからの信頼、支持は高い。
アメリカでの修行を終え、日本でのパーティーをまたロックしてくれることは間違いないでしょう。
(written by Keita Itagaki)
[PERFORMANCE HISTORY WITH MANY FAMOUS CLUB DJ'S FROM THE U.S.]
RED ZONE@TOKYO CLUB HARLEM
AM, BEVERLY BOND, CASH MONEY, CIPHA SOUNDS(BIG DAWG BULLS), ERIC LA PEAU, GOLDFINGER, GRAND MASTER FLASH, LAZY-K, MARK RONSON, MASEO(DE LA SOUL), MAX GLAZER, RICH MEDINA, SOUL, STRETCH ARMSTRONG, TOM LA ROC, TONY TOUCH
SPA@TOYKO CLUB HARLEM
CASSIDY, HUD
[PERFORMANCE HISTORY WITH A FAMOUS RAPPER FROM THE U.S.]
JIN JAPAN TOUR@YOKOHAMA CLUB LOGOS JIN (RUFF RYDERS)
[REGULAR PARTIES IN JAPAN]RED ZONE@TOKYO CLUB HARLEM (2001-2004/EVERY TUESDAY)
SPA@TOKYO BX CAFE (2001-2004/EVERY 1ST SATURDAY)
SPA@TOKYO CLUB LA FABRIQUE (2004-2005)
HOT JAM@TOKYO CLUB VUENOS (2000-2005/EVERY 2ND SATURDAY)
FUNKORAMA@YOKOHAMA CLUB LOGOS (2001-2003/EVERY FRIDAY)
FEVER@TOKYO CLUB AGEHA (2004-2005/EVERY 3RD SATURDAY)
etc...